「サステナブル」の葛藤

「サステナブル」という
言葉をよく聞くようになって久しい。

日本語では
「持続可能性」と訳されるけど
あまりにも色々なものに使われすぎて
なんだか、ピンときていなくて、

一応いつも訳をするときは
「人に優しい」とか
「地球に優しい」とかに
していたのだけれど、

どうしてもそのモヤモヤが
自分の中でクリアにならなくて
何でだろうと、最近ずっと考えていた。


だけど、先日、それが自分の中で
クリアになった出来事があった。

ある展示を
見に行った時のこと。


場所は、葉山。

はっきりしない道案内に
不安になりながら進むと、
海沿いの小高い丘の上に立つ、
小屋にたどり着く。


そこに集まる
たくさんの自由な人々、
美しい展示物たち、
そこから臨む絶景。


どうやら、ただの場所ではない。


わたわたしていたら、
そこのオーナーが
話しかけてくれた。


「この場所は、自分たちで建てたんだ。
若い作家さんたちが
展示をできる場所にしたくて」と。

「そして、なるべく
プラスチックとかは使わず
いつ自分たちがいなくなっても
自然に朽ちるように、
考えてつくったんだ。」


あぁ、そうか。
その瞬間、
何か腑に落ちたような気がした。


そうだ。それだ。

「サステナブル」というのは
この小屋が自然に朽ちることを考えて
設計されているように、
『未来が見えているもの』のことだ。


家も、食器も、洋服も、
エネルギー原料も、
そう。すべて。

よく話にあがる
人の働き方も、雇い方も、
その人の”未来”に繋がるか、
きっと、そこが本質なんじゃないかと。


なんだかそのことがわかったら
急に、世界が広がった気がした。


そう思ったら、
「持続可能性」という言葉も
悪くない気もしてきたけれど

やっぱりわたしは
「未来性」と訳すことにしようかしら。




いしかわあやか